八幡を開町した豊臣秀次が失脚したあと八幡商人の技量で徳川に保護されていました。
1600年関が原で勝利した徳川家康は、上洛のおり金台寺(八幡別院)に宿泊しています。また三代将軍家光も宿泊している街道です。商人や人々が京へつづく道として中山道と同じように交通の要として利用し、京街道として現在も親しまれています。
1607年から1811年の200年余りの間には朝鮮通信使が通った道として今日に伝えられています。守山から彦根間の42kmは朝鮮人街道といわれています。近江八幡は11回の往還があり、昼食時にあたるのがこの京街道でした。300〜500人に及ぶ行列に町をあげて接待したといわれており、朝鮮通信使の道とも呼ばれています。
いずれにせよ、八幡商人が町を守り築いた道です。多くの人々の幸福を祈り、願いが成就された道です。現在は「京街道門前通り」として新しく再生に向かっています。